一人で日帰りの旅
以前の「本場のバウムクーヘン食べ比べ」という記事では、簡単なバウムクーヘンの歴史や、ベルリンの有名店について紹介した。
実はドイツでは一般的なお菓子ではないが、やはり日本人としては「本場で美味しいものを食べてみたい!」と思わずにはいられないバウムクーヘン。自他共に認める甘党の私もご多分に漏れず、旅先でバウムクーヘンの有名店があると聞けば買って食べてみたが、バウムクーヘン先進国の日本のものを越えるような、「これはここでしか食べられない」という感動には至らなかった。
そんな中、ドイツ歴が長い日本人の同僚から聞いたり、在住者のブログで読んだりした、「バウムクーヘンの町」という存在がずっと頭の中に引っ掛かっていた。その名前はザルツヴェーデル。人口2万人くらいの小さな町で、ドイツでも知っている人は多くない。
ザルツヴェーデルは、他の町では探してもなかなか見つからないバウムクーヘンを年中買える特別な場所で、専門で作っている工房が複数ある。200年前から守られているレシピで作られたそのバウムクーヘンは、ドイツでは珍しくふわふわとした口当たりで、日本でも食べたことがない美味しさだと言う人もいる。
ベルリンからだと普通電車で片道約2時間の距離。7月のある週末、私は思い立って一人で日帰りの旅に出掛け、行きはほとんど空だったリュックサックにバウムクーヘンをいくつも詰めて帰ったのだった。
背中を押してくれたのは、『ドイツチケット(通称49ユーロチケット)』という、電車(特急除く)・バス・地下鉄・路面電車など、ドイツ全土の公共交通機関が乗り放題になる月49ユーロの定期券。ベルリンとザルツヴェーデル間の電車代は、普通だと片道40ユーロ以上するので、「ちょっと出掛けよう」と思える額ではないのだが、もともと『ドイツチケット』を契約している私にとっては追加料金なしでの遠出となった。
バウムクーヘンの聖地とも呼べそうなザルツヴェーデルはどんな町で、どんな歴史を歩んできたのか。そして実際に食べ比べてみたバウムクーヘンの味はどうだったのか。前編・後編に分けてじっくりとご紹介していきたい。
ハンザ都市からバウムクーヘンの町へ
ザルツヴェーデルは、正式には「ハンザ都市ザルツヴェーデル(Hansestadt Salzwedel)」という。日本でも世界史で習うハンザ同盟の一員として、13~16世紀に繁栄。かつてのハンザ同盟の中心都市としては、リューベックやハンブルクといった港町が思い浮かぶが、内陸にあるザルツヴェーデルにも塩などの重要な交易路が通っていたそうだ。
ちょうど「ザルツ(Salz)」はドイツ語で「塩」という意味ですね
いま実際に行ってみると、町の中心地は徒歩でぐるっと回れてしまうコンパクトさ。木組みの家が連なる旧市街の街並みは、思わず「かわいい!」と声に出してしまいそうである。
例えば観光地として確立された南部の『ロマンティック街道』沿いの町と比べると、ザルツヴェーデルは部分的にすたれた雰囲気はあるが、Marienkircheという教会がある辺りはどの建物も綺麗に保存されていた。
こんなかつてのハンザ都市だが、もう一つ別名として町のロゴにも付いているのが「バウムクーヘンの町(Die Baumkuchenstadt)」。
町の公式HPには、ザルツヴェーデルでどのようにバウムクーヘン生産が盛んになったのかという歴史も詳細に説明されているので、興味のある方は以下のリンクをどうぞ。
このページと、複数のバウムクーヘン工房のHPにある年代記を読み比べてみると、史実の記述に色々と齟齬が見つかる。しかし私は歴史の専門家でもないので、細かい点には目を瞑るとして、個人的に面白いと思った箇所だけ抽出してお伝えしたい。
バウムクーヘン発祥の町…ではない?!
「バウムクーヘン発祥の町」として紹介されることもあるザルツヴェーデルだが、どうやらバウムクーヘンは最初にこの町で考案されたわけではない。以前のブログ記事でも触れた通り、バウムクーヘンの誕生については諸説ある。
そして、ザルツヴェーデルに複数あるバウムクーヘン工房は、約200年前から部分的に重なったり離れたりする歴史を歩んできたようだ。時代は18世紀まで遡る…
フランス移民の家系に生まれ辺境伯家で料理人を務めていたErnst August Garvesという人物が、ベルリンからザルツヴェーデルに引っ越してきて飲食店を経営していた。彼が遺した手書きのレシピ本にはバウムクーヘンの作り方も含まれており、やがて孫娘のFriederike Louise Lentz(1803~1862)がその再現と改良に取り組んだ。
1841年(1843年とも言われる)にはザルツヴェーデルを訪れた当時の王様にも献上されて気に入られ、バウムクーヘンは一気に知られるようになったのだという。
さて、ほぼ同時並行で、違う人物も1807年からバウムクーヘン生産を始めていた。ザルツヴェーデル出身のJohann Andreas Schernikow(1786~1852)という菓子職人は、75キロほど離れたリューネブルクという町からバウムクーヘンのレシピを持ち帰って改良し、1808年にはバウムクーヘン工房を設立した。
その事業を引き継いだ息子のAndreas Friedrich Joachim Schernikowは、上述のFriederike Louise Lentzのカフェにも通って彼女のバウムクーヘンの味を研究していた、という記録が残っている。1878年には、やはり当時の王様にバウムクーヘンを献上して気に入られ、王室御用達として任命される。
ということで、バウムクーヘンの最初のレシピが誕生したのはザルツヴェーデルではなく、(ベルリンやリューネブルクなど)他の街である可能性が高いが、ザルツヴェーデルで本格的に生産されるようになり、当時の王様の目に留まったことで『ザルツヴェーデル特産バウムクーヘン』として知られていったことがわかる。
現在も、どの工房でも専門の職人が手作業で一本一本バウムクーヘンを焼き上げている。
秘密警察から守ったレシピ
ハンザ都市から、バウムクーヘンの町へと発展したザルツヴェーデル。
その歴史を語るうえで忘れてはならない出来事がもう一つある。東西ドイツの分裂だ。
第二次世界大戦後、ザルツヴェーデルは東ドイツに属していた。上述した複数のバウムクーヘン工房は枝分かれしたり統合したりを繰り返していたが、この時期にはFritz Kruseという男性によって一つの店に統一され、戦時中は材料不足に苦しんでいたという。
1945年にFritz Kruseが他界した後、残された妻と娘が中心となってバウムクーヘン生産を再開。繁盛していたが、東ドイツの秘密警察に目を付けられてしまう。
そして1958年、なんと妻が逮捕される。こちらの情報によると、西ドイツへのバウムクーヘン販売(輸出)が理由とされたようだが、実際には店を国有化して外貨を獲得するための口実だったと思われる。
国有化された店では娘がバウムクーヘンを作り続けたが、より安価で大量に生産できるようレシピは変更された。バターはマーガリンに、卵は乾燥卵に…。
一方で、Johann Andreas Schernikowの1807年のレシピは、東ドイツの秘密警察の手に渡らないよう大切に守られた。公共ラジオ局ドイチュラントフンクの記事によれば、Kruse一家は大きな家に住んでいて、最上階の屋根裏の石の裏にレシピ本を隠していたそうだ。
1984年にFritz Kruseの娘が死去した後、Kruse家で菓子職人として働いていたOskar Hennigがそのレシピ本を受け継いだ。1990年の東西ドイツ統一の後に設立された工房がErste Salzwedeler Baumkuchenfabrikで、現在ではその娘が経営を続けている。
1807年のレシピは現在でも企業秘密だそうです。後編では、そのバウムクーヘンを実食!
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