ウクライナを助ける在独ロシア人

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緊張感漂うヨーロッパ

世界中が固唾を呑んで見守っている、ロシアによるウクライナ侵攻。私が暮らしているベルリンにも毎日数千人の難民が到着している。ドイツは政府レベルでも厳しくロシアを批判し、市民はウクライナの様子をニュースで見ては心を痛める日々だ。

ガラス張りの駅構内の天井から吊り下げられた、青と黄色のパネル
ベルリン中央駅に入ったところには、ウクライナ国旗色のパネルに『♯StandWithUkraine』の文字が

友人や同僚との間でも必ず戦争が話題にのぼり、街中でロシア語ウクライナ語を耳にすることが増えた(私のような初心者には両言語が区別できないが…)。2年以上も振り回されてきた新型コロナウイルスの影はすっかり薄くなっている。

ベルリンの中心地では毎週末のように大規模な反戦デモが行われ、交通規制が行われて移動に影響が出たり、寄付などの支援活動が活発になったりと、一般人の日常生活でも非常事態の余波を感じるようになった。

そして私は気が付くと、ドイツ在住のロシア人の気持ちになって事態を見守るようになっていた。ベルリン含め、旧東ドイツでは、ロシアまたは旧ソ連にルーツがある人がたくさん暮らしている。

自分のブログでは政治的な話題を扱うことは避けるつもりでいたが、どうしても日本の人にも伝えたいことがあり、この記事を書くことに決めた。それは『ロシア人を差別しないで』というメッセージだ。

私とロシアの繋がり

現在の私にとって、日本とドイツの次に身近な国はロシアだと言っていい。私のパートナーである同居人Dが、ドイツとロシアのハーフだからである。

ドイツ人のお父さんは残念ながらすでに他界しているが、ロシア人のお母さん・Eとは私も仲が良く、ベルリン郊外にある家に月何回か顔を出したり、一緒にバレエを観に行ったりしている。

私にとって義理の母のような存在のEは、元々ロシア人であることを誇りにしていた。冷戦時代にモスクワ留学中だった旧東ドイツ出身の男性(Dの父親)と知り合い、結婚してベルリンに移住してから30年以上が経ち、流暢にドイツ語も話す。それでもドイツに同化したわけではなく、ことあるごとに「Akiと同じで私も外国人だから、わかるわ」「私はロシア人だから…」「ロシアではね…」という話を聞かせてくれる。

Dとその家族に知り合ってからの数年間で、バレエ大国という憧れでしかなかったロシアは、私にとって一気に身近な存在となった。まだ行ったことはないけれど、彼らが話すロシア語を耳にし、ロシア人コミュニティーの集まりにお邪魔したり、ロシア料理を食べさせてもらったり教えてもらったりしているうちに、親近感と、いつかロシアに行ってみたいという気持ちが強くなっていった。

パイ生地とクリームが重なった濃厚そうなケーキ
Eに教えてもらいながら作ったナポレオンケーキ。いわばミルフィーユのロシア版で、このレシピでは13枚のパイ生地とカスタードクリームを重ねていく

それだけに、今回のロシアによる暴挙は衝撃だった。侵攻初日の夜にちょうど家に行ったところ、Eは疲れ切った様子で、ドイツの友人知人から絶えず電話が掛かってきて、ロシア人としての意見を聞かれたのだという。もちろんEは戦争反対である。

モスクワにいる彼女の親類も反対しているが、言論統制が強まるロシアでは、それを公にはできない状況だ。Eは父親が大学教授で母親も研究者という、学者一家の出身である。モスクワやサンクトペテルブルクのような都市に住むエリート層は、様々な情報源があるので、自国が大変な過ちを犯していると知っている人も少なくないそうだ。

ただし、広大な国土を誇るロシアの大部分は地方であり、そこに住む人々は国営テレビだけを見て、ロシア政府のプロパガンダを鵜呑みにしてしまっているに違いない、とEは話す。

必死なロシア人ボランティア

侵攻が始まった週の日曜日、元々予定していた私達の家族の集まりをキャンセルし、Eはベルリンの反戦デモに参加していた。それから彼女と連絡が取りにくくなったと思っていたところ、いつの間にかウクライナ難民を助けるためのボランティアとして奔走していたのである。

難民の多くが到着するベルリン中央駅にて、電車が着くホームで待機し、降りてきた難民に案内係として付き添う。仕事がない日は10時間近く中央駅の内外を走り回っているという。

ホームに立って難民の家族に何か説明しているボランティア二人
長距離特急列車が発着するホームにて。右手でベストを着ているのがボランティア

ベルリンで真っ先に難民支援に動き出したのは、Eのような一般市民だった。ここで暮らすロシア人ウクライナ人、また大勢のドイツ人(元々人道的支援に熱心な人が多い)が、何かできることはないかとボランティアとしてすぐに集まった。

中央駅でボランティアをするのに面倒な手続きは不要で、自転車に乗るときに着るようなベストを調達し、名前と話せる言語を胸に貼ればOK。現在は色分けされており、オレンジ=ウクライナ語&ロシア語話者、黄色=ドイツ語&英語話者となっている。

構内に貼ってある、ウクライナ語で書かれた表示。ベストの色の説明もある
駅構内にはベストの色を説明する貼り紙も

今は行政の支援体制も整ってきて、ベルリン中央駅前には難民受け入れセンターのテントができ、テーゲル空港の跡地には大規模な受け入れ・宿泊施設がオープンした。難民としての登録手続きのほか、コロナ検査、医療サービス、食料品の提供など、支援は多岐にわたる。

特徴的なキューブ型のガラス張りの建物と、その手前の平たいテント
中央駅前にできた『Welcome Hall Land Berlin』。奥のキューブ型の建物はオフィスビル

ベルリンに到着するのは、何日もの危険な移動を耐え抜いて、主にポーランドを経由して辿り着いた人々だ。成人男性は出国を禁じられているので、女性、子ども、お年寄りが疲れ切った様子で電車やバスから降りてくる。ペットを連れている家族も少なくないという。

ひとまずベルリンに留まりたいという人には、難民に部屋を提供しているホテル個人宅にボランティアが連絡を取って、受け入れ可能かを確認し、そこまでの移動手段を手配する。

親戚や知り合いのいるドイツ国内外の他の街へと移動を続ける人も多い。その場合にはドイツ鉄道の窓口まで案内して、難民向けの無料チケットを発券してもらう。乗り換え方法などを詳しく説明することも大事だという。

ドイツ鉄道の窓口前に集まっている何組かの家族と、ベストを着たボランティア
この写真を撮ったのは土曜日の早朝6時過ぎ。普通は寝ているだろうこんな時間でも、複数のボランティアがドイツ鉄道の窓口前で難民の家族に付き添っている

Eに聞いたところ、ボランティアとして需要があるのは、やはりウクライナ語ロシア語を話せる人だという。旧ソ連圏のウクライナ出身者はほぼ全員ロシア語を話せるが、ドイツ語がわかる人はほとんどいないし、少しは英語ができるはずの若者も、疲れ切っていて外国語を話せる状態ではないことが多いそうだ。

ウクライナ語とロシア語はよく似ており、お互いにゆっくり話せば意思疎通できるとのこと。ただし早口だとやはりわからないので、Eも難民には「私はウクライナ語ではなくロシア語話者です」と最初に言うようにし、するとどの人もロシア語に切り替えてくれるという。

右も左もわからない外国へ何とか逃げてきて、電車を降りたとき、そこで言葉が通じるボランティアが待っていてくれたら、どんなにホッとすることだろう。

駅のインフォメーション横に貼られた、ウクライナ国旗の色の構内図
ドイツ鉄道も駅構内図をウクライナ語で貼り出している

悲しい現実なのは、本当に貧しい人や体力のない人はここまで逃げてこられず、ウクライナでじっと身を潜めているしかない、ということだ。逃げるに逃げられない入院患者やお年寄り、医療・介護従事者のことを考えると心が痛む。

巨大なバターを抱えて

ロシアのウクライナ侵攻開始から、日を重ねるごとに、ベルリン中央駅に到着する人々の様子が変わってきたという。最初はまだ余裕を持って荷造りし、念のため避難してきたという若い人が多かったが、今は“命からがら”ほぼ身一つで逃げてきたとわかる人が目に見えて増えたそうだ。

私がEから聞いた話の一つは、10個近くの紙袋をなんとか両手から提げて逃げてきたウクライナ人女性。何日も移動しているうちに、紙袋には穴があいてボロボロになっていたという。本人に聞くと、

屋根裏にスーツケースを置いていたのですが、爆撃の危険があるから取りにいけなかったんです。それでキッチンにあった紙袋をかき集めて必要な物を詰めました

といい、避難を余儀なくされた時の切羽詰まった様子が目に浮かぶ。ベルリンのボランティア達は、IKEAやスーパーの頑丈なショッピングバッグを探してきて、彼女の荷物を詰め直してあげたそうだ。

Eはこれまでにも何度か、避難してきた家族が長期的な滞在先に移動できるまで、自分の家に無償で受け入れをしている。難民達も言葉が通じるEの家で束の間の安堵を覚えたに違いない。

先日私がEの家に行ったとき、「これはうちに二日間泊まっていた、ウクライナ難民の家族が置いていったの」と見せてくれたものがある。

片手では持てない大きさと重さの、ラップで包まれたずっしりしたクリーム色の物体…これは一体?

実はそれは、2キロはあろうかという巨大な手作りバターのかたまり。その他に、1キロ分のやわらかいプロセスチーズもあった。Eがその家族に聞いたところ、「パンだけはどうにか調達して、非常時にはこのバターとチーズを塗って食べようと思っていた」という。

なるほど、日本人であれば水の他におにぎりさえあれば死にはしないと思ったところかもしれないが、それが彼らにとってはパンとバターだったわけである。

ドイツ国内で難民用の施設に移れることになったので、お礼としてそのバターとチーズはEの家に置いていったのだそうだ。ウクライナからはるばる運ばれてきた手作りバターを私も食べさせてもらったが、市販のものより柔らかくクリーミーで美味しかった。

こういった個人的なエピソードに接していると、ウクライナ侵攻が画面の中の出来事ではなく、実際にドイツのすぐ近くで起こっていることを実感させられる。

駅構内の床、ウクライナの国旗の色の上に、「受け入れ」とドイツ語とウクライナ語で書いてある
これはベルリンではなく、更に西へ遠く離れたケルン中央駅にて。ここでも駅前にウクライナ難民支援のテントができていた。Empfangはドイツ語で、受付や受け入れといった意味

「ロシア人はプーチンではない」

ウクライナ難民の滞在先を探しては車で連れて行ったり、自分の家にも受け入れたり、無償の支援に奔走しているE。元々困っている人がいると放っておけないタイプではあるのだが、ここまで献身的になれるというのは自分でも驚いたそうだ。

そうは言っても、仕事の合間を縫ってのボランティア活動で、自分が心身の健康を損なってはいけない。しかし、「今日は休もう」と決めて家にいても、難民のことが頭から離れず落ち着かないのだという。

「中央駅に行けば、やるべきことが山ほどあるとわかっているから。自分と同じ言葉を話す人達が助けを求めている。それも、自分の国が始めた戦争のせいで。じっとしてはいられない、助けなきゃって、責任を感じる」とEは話す。

難民が多く乗っているポーランドからの長距離列車が到着するとき、ベルリンのボランティア達はグループで電車に向かっていくのだという。「変だけど、ちょっとヒーローみたいな気分になることもあるのよ。周りの人達も私達がボランティアだって気が付いて、尊敬の眼差しで、さっと道を開けてくれるの」。

ロシア人には助けられたくないという難民もいるの?と私がEに聞いたところ、「一度もそんなことはない」とのこと。「逆に、どのウクライナ人も心から感謝してくれる」と。実際に被害を受けているウクライナの人々の方が、ロシア人みんなが悪いわけではない、とちゃんと理解できているのかもしれない。

というのも、ドイツでもロシア人に対する差別が増加したとメディアで見聞きするようになったからである。EやDも周りの目が気になって、街中でロシア語を話すことを避けるようになったという。

私の同居人Dは、母親のEがロシア人で、ドイツ語・ロシア語のバイリンガルとして育ったとはいえ、生まれたのも教育を受けたのもベルリンだから、アイデンティティとしてはドイツ人である。もちろん国籍もドイツ。

それでも今回の事件を受けて、ドイツの友人達から“ロシア人ハーフ”としての意見を聞かれるようになり、急に自分のロシア側のルーツがクローズアップされたことに戸惑っているようだ。「ロシア人=悪者」というような言われ方をすれば、自分がロシア人という意識は薄くとも、Dも「ロシア人全員を一緒くたにしないでくれ」と反論するしかない。

ロシア人であることを誇りにしていたEは、「ロシア人を誤解しないでほしい。本当は平和を愛する人々なの」と言う。彼女は先日ZDF(ドイツ第2テレビ)のルポルタージュ番組でも実名でインタビューされ、

ロシア人はプーチンではない

と言い切った。テレビで公然と政府の批判をするとは、大変な勇気である(今後ロシアで入国拒否などの制裁を受けなければいいのだが…)

私はEやDを見ていると、ウクライナの人々はもちろんのこと、ロシアの人々も気の毒でならない。おそらくこれから何世代もの間、『ロシア』という名には負のイメージが付きまとってしまうだろう。素晴らしい文化と心優しい国民を持った国なのに、本当に残念なことだ。

このウクライナ侵攻では、ごく一部を除いて、ロシア人も被害者だと私は思っている。日本で暮らすロシア人も、差別を受けないか心配しているというニュースを読んだ。ロシア人だからという理由だけで差別するなど、言語道断。むしろ、ロシアにいる家族や友人は大丈夫か、気遣ってあげるべきだろう。

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