郷に入れば郷に従え?
計6年くらいドイツで暮らしていると話すと、「もうすっかりドイツ人みたいですね」と言われることがあるが、もちろん長く住んでいても(帰化はできるけれど)本当にドイツ人になるわけではない。
一方で、大学に通ったり仕事をしたり、この国のシステムの中で生活している限り、順応しなければならない点は多々ある。郷に入れば郷に従えということで、気がつけば“ドイツ人のように”振る舞うようになっている部分もあるし、どうしても変わらない部分もある。
この記事の中では、後者の「どうしても変わらない部分」と、それが引き起こす可能性がある問題について、掘り下げて考えてみたい。
日本での礼儀、ドイツでの弱点
私は誰かと一対一で話すときは、なるべく50パーセントずつボールを投げて、会話のキャッチボールをするように心掛けている。相手に合わせつつ、半分の時間は私が喋ることになる。
それが、ドイツ人のグループに入ると急に黙り込んでしまう。ボール、つまり発言のタイミングが自動的には回ってこないからだ。
一対一であれば、もしくは日本人なら複数人でも、息継ぎをするようにどこかで話の切れ目があり、次の人が口を開くことができる。しかし、複数のドイツ人の会話にはこの“切れ目”がないことが多い。前の人の話が終わらないうちに、被せるようにして自分が話し始めたり、もう前の人の要点がわかったと思うと話を遮って意見することもある。
つまり、「人の話は最後まで聞く」という日本人的な習慣かつ礼儀は、存在しないのである。
私は何年こちらで暮らしていても、つい「人の話は最後まで聞く」ようにしてしまい、結果的にいつも発言のタイミングを逃す。遠慮しているわけではないのだが、どうしても失礼な気がしてしまい、人の話を遮ってまで発言することができない。
日本での礼儀が、ドイツでの弱点になるとは…
ドイツ人達は、自分が話している途中で誰かが口を開いて発言の意思を見せても、それを制しつつ最後まで話し続けることも多い。逆に言えば、次に発言したい人は早めに意思表示しておかないと、待っているだけではいつまでもボールは回ってこない。
人の話は最後まで聞かなくてよし
ドイツ人は概して議論好きな人が多いので、ビジネスだけでなく友人同士でも、複数人が集まって勢いよく意見を言い合っているところを耳にすると、なかなか迫力がある。語気が強く聞こえるドイツ語の特性もあるかもしれない。
若者も政治の話をよくするし(日本ではタブーに近いだろう)、議論が白熱しているなと思って聞いていると、本当に些細なテーマなこともある。
最近もドイツ人の友人3人が、「テフロン加工フライパンが良いか、鋳鉄フライパンが良いか」という問題で1時間くらい熱く議論していました…笑
この「相手が話し終わっていなくても自分の意見を言う」という前のめりな態度、ないし「相手の話を遮ることに対する抵抗のなさ」がどこからきているか考えてみると、やはり教育だろうと思う。
私はドイツの大学で学士課程と修士課程に通っていたが、学生の発言の多さ…というよりも、「何か質問がある人」と先生に聞かれるまでもなく、わからないことやコメントがあればその都度口を開く姿勢に驚いた。先生の話を遮ったり、授業の流れを止めたりすることへの遠慮はない。他の学生がどう思うかも気にしない。
結果として副次的な議論に10分以上割かれることもあったが、予定が狂ってしまった先生も、「今日は予定していた箇所まで進みませんでしたが、活発な議論ができたのでよかったです」とあっけらかんとしていた。
ドイツでは初等教育から、間違ってもいいのでその場で躊躇せずに発言することが大事にされているのだろう。それは高等教育、またビジネスの場でも基礎となっている。
その際に大事なのは、相手の話に意見を差し挟んだり、反論したりすることが、“否定的”ではないことだ。相手の意見を否定するとしても、それがその人を否定しているわけではなく、単に意見が違うだけ、という共通認識がある。
日本では、意見の否定=人格の否定と混同されがちである。特に、教師と生徒、上司と部下のように、上下関係がはっきりしている場合には、上に立つ人に異議を唱えることはタブーに近い。更に「人の話を最後まで聞く」ことが礼儀なので、言いたい言葉もどうしても呑み込んでしまう。
また、ドイツでは結論を先に言う傾向があることも、日本との違いとして挙げられるだろう。結論を言ってから根拠を述べるので、話を最後まで聞かなくても要点はわかる。逆に日本では、理由や背景を述べてから最後に結論を言う人が多いので、話を途中で遮ることが難しいという側面もある。
無理してドイツ化すべきか
さて、私は未だに「人の話を最後まで聞く」という日本人的な習慣を捨てられないわけだが、無期限でドイツで暮らしている身として、これを無理してでも変えるべきどうか考えることもある。おそらくそういう海外在住者は少なくないだろう。
結論としては、ビジネスなどで損得が関わっており、どうにか自分の意見を述べる方がいいと思われる場合には、割り込んでいくつもりで発言のタイミングを作る。逆に、友人グループの会話でつい聞き手に徹してしまっても、それぞれ一対一で会話する機会もあるだろうから、あまり気にしないことにした。
例えばハイデルベルクで3年ほど通っていたバレエクラスのメンバーは仲が良く、レッスンの前後にいつもわいわいとお喋りしていたが、例の如く会話に切れ目がないので、私はほとんど話を聞いているだけだった。しかし途中でスタジオの場所が郊外に変わり、車を運転できるメンバーが交代で私も乗せていってくれるようになった。車内では一対一で、半々くらいの割合で会話をできたので、(はっきり言われはしなかったが)「Akiってこんなに喋る人だったのね」と驚かれている様子が伝わってきた。
基本的に私は、いつも人の話をちゃんと聞いている感じの良い人という印象を持たれていたようで、ベルリンへ引っ越した後、「クラスからAkiがいなくなって寂しい」と何人も連絡をくれたのが嬉しい驚きだった。
実際よりも大人しい人と思われる可能性はあるが、無理して会話の中に入っていく必要はないことも多いだろう。そもそも「人の話を最後まで聞く」という姿勢は、場面によっては弱点になるかもしれないけれど、それ自体尊ぶべきものである。
ミヒャエル・エンデ著『モモ』のテーマにもなっていますが、相手の話を注意深く聞くことができるのも、一つの才能なのかもしれません
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