ラーフェンスブリュック強制収容所とは?
ドイツらしい問題を乗り越えて、ベルリンのユースホステルでドイツ滞在の最初の夜を過ごした学生さん15名。しかし次の日も朝早くから、勉強のために遠出することになっていた。行き先は、ベルリンから普通電車で約1時間のところにある、ラーフェンスブリュック強制収容所。現在は慰霊・記念館として一般公開されている。
特筆すべきは、ここは女性用の強制収容所として、ナチス時代に最大規模だったということ(一部の男性も収容されていた)。ベルリン研修旅行①で述べたように、実は私達がこの強制収容所へ向かった3月8日は、図らずもベルリンで新しく導入された祝日『国際女性デー』だった。
この研修旅行は祝日の制定前からスケジュールを組んでいたから、純粋な偶然だけれど、なんてピッタリ!
最寄駅のFürstenberg駅から、森を切り開いて作られた強制収容所までは、20〜30分歩かなければいけない。しかしこれも勉強の一部である。というのも、既にナチス時代には同じ場所に駅があって、収容される女性達は同じ道を歩かされて強制収容所まで向かったから。
かつては13万2千人の女性と幼い子ども、2万人の男性、千人の少女が収容され、正確な数字はわかっていないようだが、数万人の命がここで絶たれたという。
セミナーの流れ
ラーフェンスブリュック強制収容所に到着すると、毎年O教授の研修旅行で説明を担当してくれているという、ドイツ人男性のガイドさんが出迎えてくれた。この慰霊・記念館では次世代の教育に力を入れており、彼も教育部門の職員で、色々なグループに向けてセミナーやガイドツアーを行なっているとのこと。ガイドさんと学生の間では、O教授と私で日独の通訳を行った。
まず教育部門の建屋のセミナー室に通されて、この日のスケジュールを簡単に説明される。…が、この小さな建物というのが既にすごい。強制収容所の敷地の手前にあるのだが、実はナチスの時代、親衛隊(SS)が住んでいた場所である。
これらの建物は有効活用されており、写真の奥の方にある建物は、色々な議論の末に現在ユースホステルとして使用されているので、宿泊することもできる。私達は日帰りのセミナーだったが、昼食はそこで食べて、ベルリンのユースホステルよりもずっと美味しいことにびっくりした。
さて、セミナーの流れは以下のようになっていた。
〈午前〉
・3人ずつのグループに分かれて、収容所の敷地を歩き、気になった場所や物を写真に撮る
・セミナー室に戻り、1人1枚、特に気になった写真を選ぶ
〈午後〉
・各学生が、なぜその写真を選んだのかを話したうえで、ガイドがその場所や物を説明する
・まとめとして、収容所の敷地を全員でもう一度歩いて説明を聞く
最初に手渡されたのは、わざと建物の名称が書かれていない地図と、各グループ1台のデジタルカメラのみ。つまり、予備知識なしに強制収容所の敷地内を歩いてまわり、受けた印象をそのまま持って帰ってきて、そこから説明が始まる、という構成になっているのが面白い。
セミナーで学んだこと
ラーフェンスブリュック強制収容所の敷地は広く、中に入ると展示スペースになっている建物もあるので、詳しく見ていこうとするとかなりの時間が必要となる。
1時間程度歩いてきた学生さん達は、それぞれ興味深い写真を撮って、セミナー室に戻ってきた。セミナーを担当してくれたガイドさんは、例えば木の切り株のように、どんなに些細に見える物や風景にでも、歴史に基づいた話をしてくれるのが流石。この強制収容所の詳しい歴史などは、他のサイトでも詳しく説明されているので割愛して、ここでは私の印象に強く残った逸話を書いていこうと思う。
ガイドさんは、この強制収容所を生き延びた女性達にインタビューしてきたそうだ。そこから浮かび上がってくる悲惨な生活は、あまりに生々しく残酷である。例えばある女性は、駅から強制収容所まで連れてこられたときに、隣町の教会の塔が目に入って、「信心深い人達が住んでいる街の隣で、そんなに酷い目に遭うわけない」と思ったそうだが、実際にはその期待は裏切られた。
強制収容所は湖の横にあり、収容者の大量の遺体を焼いて処分する施設もあった。焼却炉から立ち上る煙と匂いは、風向きによっては対岸の街まで届いていたはずだし、駅の近くの住民達も、森の方に連れていかれる女性達の身に何が起こっているのか、薄々は勘付いていたはずだが、見て見ぬ振りをしていた。
女性特有の苦しみ、という話も印象的だった。この強制収容所に連れてこられた女性達は、まず身体検査を受けて、シラミ対策で髪の毛を剃られた。これは男性用の強制収容所でも行われていたことだが、女性にとって(特に長い髪が一般的だった時代において)髪を剃られるというのは、女性らしさとアイデンティティの喪失に結びつき、堪え難いことだった。
また、ある生存者の話によると、ほとんどの収容者は、数週間か数ヶ月で生理がこなくなったそうだ。精神的な苦痛と栄養状態の悪さが原因だったと思われる。「生理がないというのは、布も十分に支給されない強制収容所の生活では、もちろん楽ではありましたが、もう二度と子どもを産めない体になったのでは…という不安は恐ろしいものでした」と話してくれたという。
そもそも、強制収容所に連れてこられるのには、反ナチス的な行動、人種や同性愛など、様々な理由があったが、女性特有の理由もあった。外国人労働者の男性との恋愛関係もそれにあたる。ガイドさんは、同じ農場で働いていたポーランド人男性と恋に落ちて妊娠・出産し、それを農場主から告発され、この収容所に送られたドイツ人女性の話をしてくれた。彼女は「この外国人に乱暴された」と言えば自分は助かったのに、愛のためにそれができず、彼と恋愛関係にあることを認めた。男性も他の強制収容所に送られていたが、二人とも奇跡的に生き延びて、戦後に結婚することができたとのことである。
囚人バラックは現在は見ることができず、あった場所が地面に溝として示されているが、敷地の向こう側には、織物工場が残されている。強制収容所で課される強制労働も男女で区別されていた。男性が重労働に駆り出される一方で、ほとんどの収容者が女性だったラーフェンスブリュック強制収容所では、各地の収容所で使われるユニフォームを縫っていた。
収容者達の中でも、ある種の『階級』があったという話も興味深かった。数は少なかったが、例えば政治犯として捕まった北欧の女性は、ユダヤ人やロマ人よりも優れた人種とされていたので、比較的優遇されていたのだという。また、男性との関係が原因で収容された女性達は、他の収容者達からも特に差別され、男性用の強制収容所で報酬制度として用意されていた売春宿でも働くことを強いられた。
セミナーを終えて
私もそうだが、日本人学生さん達の大半も女性だったので、余計に心に重くのしかかる話ばかりだった。強制収容所の跡地で、生存者から実際に聞いた話をガイドさんが教えてくれると、その場面が目の前に浮かんでくるような感覚を何度か覚えて、ゾクッとした。ここで人間のように扱われず、過酷な強制労働に使われ、やがて飢えや病気で死んだ、もしくは銃やガスや人体実験で惨殺された人々の血と記憶が、今でも周囲に充満しているような気がしてくる。
慰霊・記念館では、史実を少しでも正確に後世に伝えるため、高齢化していく生存者からの聞き取り調査に力を注いでいるそうだ。ガイドツアーやセミナーのプログラムも充実しているので、個人だけでなく、グループで勉強しにいく場所としてもおすすめしたい。
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