ドイツで文学を『学ぶ』とは?

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教科としての文学

小学校・中学校・高校と必修だった、国語ないし現代文の授業。私は得意ではあったのに、好きな科目ではなかった。むしろ、典型的な文系の頭ながら、数学の方が好きだった。

なぜか?…それは、数学とは違って、「はっきりした正解がない」と思っていたから。

特に嫌だったのは、「著者は何を言わんとしているのでしょう」という手の設問に答えなければいけないとき。そんなのは解釈の問題であり、100人に聞いて99人がそうと言うような理解の仕方があったとしても、実は著者自身は違う意図で書いたのかもしれないのだ。こんな設問に正解・不正解があるとは思えない。

中学時代から文芸部に所属し、自分でも短編小説を書いていた私は、おこがましくも作者の立場から想像していたのだった。自由に書いた自分の文章が教育の場で切り刻まれ、「この解釈は正しい」「これは正しくない」と決めつけられるとしたら、なんて不快なんだろう、と。本来は読者それぞれの感性に任せられるべきところが、『読解力』の名の下で操作されているようで、どうしても嫌だったのだ。

そんなわけで、大学ではあえて文学部ではなく外国語学部ドイツ語専攻に入り、どちらかと言えば言語学な側面を中心に勉強した。言葉さえわかれば、文学は自分で作品を読んで楽しめばよいと思っていた。

しかし、ドイツ語でドイツ文学を読むようになっても、何だか作品の理解が深まった気がしない。むしろ、外国語の理解という第一関門に捉われて、作品自体は余計に曇って見える気がした。これなら、原文とは若干色が変わって見えるかもしれないが、プロの翻訳という『眼鏡』を掛け続けた方が、はっきりと作品を掴むことができるのではないかとも思った。

必修だったドイツ文学史の講義で、時代区分など最低限のことは教わったはずなのだが、時間的な制約もあり表面的な知識と理解で終わってしまったので、残念ながらあまり記憶に残っていない。

ドイツのドイツ学科で受けた衝撃

会社員になって何年も学問から遠ざかっていた後、色々な偶然と幸運が重なって、ドイツ最古と言われるハイデルベルク大学の修士課程で比較文学を専攻することになる。ドイツ学科内の専攻なので、基礎はドイツ文学で、それと何か(他の国の文学や他の芸術形態)との比較が研究対象。私は文学とバレエの比較研究をしたくて入学したので、文学の勉強自体にはあまり期待していなかった。

学部の建物
旧市街にある黄色い建物が、私が通っていた学科

ドイツ以外で学士を修了して、いきなり修士課程に入った私のような外国人学生向けに、ドイツ文学の補習のゼミがあったので、1学期目に受講することにした。そこで最初から衝撃を受けることになる。

ゲーテの詩の韻脚がわからない?!

初回の授業で扱ったのはゲーテの詩。予習していったので各単語の意味自体はわかるものの、私はJambus(弱強格)とTrochäus(強弱格)という韻脚の種類すらよく知らなかった。これはもちろん、ドイツ文学の学士号を持っていれば知っているべき基礎知識。ドイツ文学の何も理解していなかったことを突きつけられ、自分の無知に恥ずかしくなる。しかも補習に来ている外国人学生が3人しかおらず、ドイツ人の教員に次々質問されるので、毎週冷や汗をかきながら参加していた。

ゲーテの肖像
それでもやっぱりゲーテは素晴らしい。写真はフランクフルトのシュテーデル美術館にて

メルヒェンの2つの種類

この補習では毎週違う作品を扱って、予習として通読してこなければいけなかったので、小説のときは時間的にきつかった。ある週のテーマは、ロマン主義作家ルートヴィヒ・ティーク(1773-1853)の『金髪のエックベルト』という作品。メルヒェンにしては長くて100ページくらいあるのだが、私はさっと通して読んだだけで足取り軽く授業に向かった。というのも、この作品、日本の学部時代、読解の授業のテキストだったのだ。

日本では毎週、この本の原文を日本語に少しずつ訳す練習をした。1学期間掛けて最後まで読むことになったので、一つの作品としてちゃんと味わったわけではなく、「気味の悪いストーリーだな」という感想を持った記憶しかない。それでも内容は覚えていたから、今回の大学院の授業はちゃんと付いていけるだろう、と思ったのだった。

補習のゼミにて、ドイツ人の教員が話し出す。「この作品によって創作童話(Kunstmärchen)というジャンルが確立されたと言えます。民間童話(Volksmärchen)と大きく違う点は……」。

…ん?メルヒェンって2種類あるの??

ここでまた目から鱗が落ちた。それまで意識したこともなかったのだが、メルヒェン、つまり童話は、文学のジャンルとして2つに区分される。1つは、誰の発想だったのか不明だが昔から語り継がれてきた口承文学に基づいた民間童話。代表的なのはグリム童話で、これはグリム兄弟がドイツ各地で調査して編纂したものであり、2人の創作ではない。もう1つは、作者がはっきりとした新しい作品である創作童話

詳しい説明やあらすじは長くなるので割愛するが、こういった知識を持って『金髪のエックベルト』を読むと、今までと全く違う理解が可能になる。創作童話としての特徴や、ロマン主義の典型的な要素が浮かび上がって見えてくる。何より、面白い!これはただの気味の悪い話ではない、ドイツ文学史で重要な作品なのだ、とわかってくる。すると、ティーク前後の作家の作品も、違った観点から読むことができて、一気に理解の幅が広がる。

私が日本で専攻したドイツ学(Germanistik)は、ドイツ語という語学であって、専門的な学問ではなかった、ということに気が付いたのはこの時である。

著者の死後一定期間が経過し、著作権が切れた作品を電子化してインターネット上で公開しているプロジェクト・グーテンベルクでは、『金髪のエックベルト』の全文を読むことができる。興味のある方は以下のリンクからどうぞ(ドイツ語)
Kapitel 1 des Buches: Der blonde Eckbert von Ludwig Tieck | Projekt Gutenberg
In einer Gegend des Harzes wohnte ein Ritter, den man gewöhnlich nur den blonden Eckbert nannte. Er war ohngefähr vierzig Jahr alt, kaum von mittler G

文学を『学ぶ』意味とは

日本にいた時は「文学は学ぶものではない」と思っていた私だったが、ドイツの大学院で、何度も目から鱗が落ちる経験をした。言葉を理解できれば、作品を表面的に楽しむことはもちろん可能だろう。それでも、時代背景や当時の思想についての知識があるのとないのとでは、理解の度合いが大きく変わってくる。私がドイツで出会った教授陣は、ドイツ文学だけでなく、歴史や哲学の学位も持っている人が多かったが、文学を本気で学ぼうとすると幅広い知識が必要だということの表れに違いない。

特に私のような外国人であれば、勉強すべきことは更に多い。ドイツ語だけではなく、キリスト教的な思想など、ドイツ人であれば当たり前に持っている知識も身につけなければならない。私自身、聖書を通読して、勉強会にも通うようになってから、また一歩ドイツ文学に近づけた気がする。

それこそ、「目から鱗が落ちる」という表現はドイツ語でもありますが、これも聖書が出典ですね

一つの作品を深く読み込んで、色々な研究書を見比べてみると、研究者ごとに違う解釈があり、(作者がまだ生きていて確認できないかぎりは)推測の域を出ないことももちろん多い。しかし、作品を理解しようとする、このプロセスにこそ意味があるのだろう。数学のようにただ一つの正解はない…それが文学という学問のもどかしさであり、醍醐味でもあると今は思う。

ちなみに私は卒業前の口頭試問で、ゲオルグ・ビューヒナー(1813−1837)の『ヴォイツェック』という戯曲について話しているとき、解釈の仕方があまりに突拍子なかったようで、最初は試験官2人に笑われた。それでも自分の理解と裏付けを説明し続けると、最後には「かなり独特な解釈ですね」と言われながらも減点のポイントにはならなかったようだ。そう、正解がないのと同じように、不正解もないのが文学である。

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