文学とバレエの関係

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比較文学の隠れた分野

文学とバレエの比較研究をしていました」と話すと、「一体何をどうやって比較するんですか?」と必ずと言っていいほど聞かれる。当然の疑問である。

私がハイデルベルク大学の修士課程で専攻していた比較文学は、ドイツ文学を基盤に、基本的には何と比較をしてもOKというオープンな学問。典型的なのは他国の文学との比較。外国人学生であれば、特定の作家を取り上げて、ドイツ文学と母国の文学を比較研究するのが、母語を活かせるという利点もあるしやりやすい。

一方で、文学と別の芸術形態との比較もアリである。文学と演劇などは切っても切り離せない関係にあるし、私が比較文学の入門コースを受けていた教授は、文学と映画の比較研究に造詣が深かった。そんな中で、文学とバレエというのは、かなりニッチな分野で、あまり先行研究が見つからない。

なぜか?…バレエでは『言葉』が発せられないからである。演劇と違って台詞があるわけではないので、文字で書かれた、つまり言葉で構成された文学作品と比較しようと思っても、「何をどうやって比較するのか」と問題の前に立ちすくむことになる。

また、研究するということは結果を論文にまとめることが必須になるが、踊りを文章の中で分析しようとすると、動き(振り付け)を正確に描写するための特殊な『ボキャブラリー』が必要となる。これはもはや文学というよりも、舞踊論や記号論の分野に入ってしまう。

総合芸術と呼ばれるバレエは、舞踊・音楽・演劇・造形などの要素が渾然一体となった、それ自体が非常に複雑な芸術形態である。一つ一つ要素を取り出して分析することはできても、複数の分野にまたがる研究は、どこに理論的な土台を据えるのかという問題もあり、かなり難解になってくる。

しかし、文学とバレエの比較研究が不可能かというと、そういうわけではなく、むしろこれ以上なく面白いテーマ。この記事の中では、専門的なことは抜きにして、文学とバレエがどういう関係にあるのか、わかりやすく解説する。

文学なくして今のバレエなし

「バレエ」と言われてどんな作品を思い浮かべるだろうか。特にバレエが好きというわけではない人でも、『眠りの森の美女』『ロミオとジュリエット』『ドン・キホーテ』『シンデレラ』『オネーギン』などのタイトルは聞いたことがあると思う。言うまでもなく、どれもが文学作品や童話を基にしている。

そう、バレエ作品の誕生の裏には、ほとんど場合に文学がある。はっきりしたストーリーがない初期のバレエや、現代のコンテンポラリーバレエは別として、20世紀初頭までは、まず文学作品がシナリオに書き直され、バレエという踊りに“翻訳”されていた。

私が修士論文で分析したのは『くるみ割り人形』で、これはロマン主義のドイツ人作家、E. T. A. ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』という小説をバレエにしたものである(ちなみに、バレエ『コッペリア』もホフマンの『砂男』という作品から着想を得ている)。

こう考えていくと、文学とバレエをどう比較するのか、という取っ掛かりが見えてくる。文章と踊りという表現方法は違っても、ストーリー性という共通点があるからだ。舞踊論や音楽論の方に行きすぎないで、文学的な側面から比較研究しようとすると、おそらくここが中核になる。「原作のストーリーと、舞台上のストーリーでは、何が同じで、何が変わっているのか」と比べていくのは、それだけで興味深い。

先に述べたように、文学とバレエに関する参考文献はかなり少ないのだが、文学とオペラに関してはもっと先行研究があり、バレエに応用が利く部分も多い。オペラも多くが文学作品を基にしているし、歌詞や台詞という『言葉』があるぶん、比較文学者にとっては取っつきやすい。オペラとの比較の理論を応用すると、文学作品がバレエに作り変えられるとき、ポイントとなるのは以下の3点。

  • ストーリーの簡略化
  • 内容の緩和
  • 振り付けの原則

ポイント1:簡略化

予習せずにバレエを観に行ったら、ストーリーがよくわからなかった、という人もいるかもしれない。それも無理はなくて、バレエは複雑なストーリーにはあまり向いていない。舞台装置や上演時間、つまり空間・時間に制限があるし、何より台詞がないので、踊りとマイム(身振り手振り)では、複雑な状況や人間関係の説明には限界がある。

誰もが知っている文学作品を舞台化すれば、観客がシナリオを理解しやすいので、この点でもメリットになりますね

そこで、文学作品をバレエとして上演する場合、ストーリーが簡略化されることが多い。例えば、『くるみ割り人形』でいうと、原作の30%くらいを占める部分がバレエではばっさりとカットされている。

ホフマンの創作童話である『くるみ割り人形とねずみの王様』は、このジャンルの特徴をよく備えていて、複雑な構造をしている。物語の中にもう一つ独立した物語(美しい少年がくるみ割り人形に変身させられてしまった経緯)が組み込まれていて、そのうえ語り手が物語の外にいる設定なので、次元が4つもある。しかしバレエでは、一貫性とわかりやすさを優先させて、「主人公の少女の現実世界」と「お菓子の国」の2つだけに次元が絞り込まれている。

キャラクターの性質もわかりやすくなっており、主人公のゴッドファザーであるドロッセルマイヤーは、原作では善とも悪ともつかない存在なのだが、バレエでは「いいおじさん」として表現されることが多い。ちなみに、くるみ割り人形になってしまった少年は、実はドロッセルマイヤーの甥なのだが、英国ロイヤルバレエ団のバージョンを除いて、バレエではこの点も強調されることはない。

ポイント2:緩和

バレエでは、暴力的だったり性的だったりする、過激なシーンもカットされるか緩和される傾向がある。

『くるみ割り人形』でいうと、原作では、ある夜にねずみの王様との対決に決着を付けたくるみ割り人形が、血まみれの剣を持って少女の部屋に報告に来るのだが、ご存知のようにバレエではそんなホラーめいたシーンはない。くるみ割り人形率いるおもちゃの軍隊と、ねずみの軍隊の戦いで、そこに居合わせた主人公がねずみの王様に靴を投げつけ、あっけなく退治してしまう。

原作に一貫して漂っている『不気味さ』(ホフマン作品の特徴で、彼はGespensterHoffmann「おばけホフマン」ともあだ名されていた)がバレエでは消えているのも、一種の緩和と言える。劇場では、純粋で夢のように甘い『お菓子の国』に、主人公と一緒に観客も引き込まれていく。

客席から見た豪華な劇場と、幕に描かれたおもちゃの絵
ENB(イングリッシュ・ナショナルバレエ)の『くるみ割り人形』の公演前にて。幕の絵も素敵

ポイント3:振り付けの原則

最後のポイントは、簡単にいうと、「バレエをバレエたらしめる最低限のルールを守ること」。時代によって変化するが、バレエ作品には「こうあるべき」という決まりが色々とある。

多くのバレエは、マイム中心の導入から始まり、群舞があり、キャラクターダンス(民族舞踊の要素を取り入れた踊り)があり、男女のパ・ドゥ・ドゥで最高潮を迎える。こういったルールを守るために、原作からシナリオが大幅に変更されたり、元々なかったシーンが足されたりする。

バレエ『くるみ割り人形』は、大勢のゲストを迎えたクリスマスパーティーから始まるが、これは群舞を可能にするための工夫で、原作では家族5人・乳母・ドロッセルマイヤーの7人しか出てこない。

また、お菓子の国で披露される「スペインの踊り」「アラビアの踊り」「中国の踊り」「ロシアの踊り」などの、ストーリーとは関係のない踊りも(バレエ用語ではディヴェルティスマンという)、チャイコフスキー作曲では一番と言っていいくらいに知られたキャラクターダンスである。その後に続く「あし笛の踊り」は、日本人にとっては、某携帯電話会社のCM曲としてお馴染み。

美しい白いチュチュと、キャラクターダンスの衣裳
ENBのワークショップに参加して、舞台裏を見せてもらった時に撮影。金平糖の精の繊細なチュチュと、くるみ割り人形とキャラクターダンスの衣裳

まとめ

文学作品をバレエ作品に転化するときに問題となるのは、「どれだけ忠実に再現するか」よりも、「どうやってバレエとして成り立たせるか」だと言っていいだろう。原作のエッセンスを残したまま、バレエの枠組みに当て嵌めて、言葉を用いずにストーリーを伝えるのは、至難の業。一方で、感情の表現などは、文面よりも踊りと音楽の方が心に迫ってくることもある。

原作の忠実な再現でないということは、どのバレエ作品も、振付家の個人的な解釈が色濃く反映される。文学とバレエの比較に興味を持った人におすすめなのは、ドイツで活躍した振付家、ジョン・クランコの『ロミオとジュリエット』。クランコは物語を視覚的に伝える卓越した才能を持っていて、従来は境界がはっきりとしていた、踊りとマイムを違和感なく融合させてストーリーを進めていくのが素晴らしい。

原作の文章とバレエとしての舞台、それぞれに良さがあります

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